のっちゃんの攻城手記−小谷城


第三回目は「小谷城」を紹介します。

前回、前々回に引き続き、滋賀県のお城の紹介ばかりですみません。
(だって、滋賀県には良いお城がたくさん残って居るんですもの〜。)
(それと、ちょうど大河ドラマで浅井長政が登場してきたので。)

小谷城は、滋賀県の湖北町にあり、麓には、北陸自動車道、国道8号線(旧北国街道)、 国道365号線(旧北国脇往還)が走っており、昔から交通の要所であったことが伺えます。
(北陸自動車道の木之元ICから長浜IC方面に向かって走ると、左側の山腹にに小谷城址の看板が  見えます。今度車で走られたときはちょっと気をつけて見てください。)
残念ながら、天守閣や櫓、などの建築物はもちろん、石垣のほとんどは新しいお城の築城資材として転用 されたため、ほとんど残っていません。
しかし、戦国時代まっただ中のあってまさに戦うために作られたお城が実感出来ます。 また、山頂部は有名な桜の名所です。
この時期はお花見客で混雑しますので、お城をゆっくり味わいたい方は避けた方がよろしいと思います。

小谷城の登城ルートは、麓の駐車場から車で中腹の駐車場まであがるルートがおすすめ。
所有時間は中腹の駐車場から、山頂までは30分ほどでつきます。
浅井氏の里屋敷のあった清水谷から六坊丸へ通じるルートもありますが、 こちらのルートは、麓から山頂への登山道になります。

しかし、中腹の駐車場からの先は急な坂道が続きますのでくれぐれも足元だけはしっかり準備しておきましょう。
また、当然自動販売機などは有りませんので、水分補給のための水筒や チョコレートなどの軽食も忘れずに準備してください。

近くには、「姉川の古戦場」や「国友鉄砲の里」などがあります。
お時間がある時には、ちょっと寄り道をされたらいかがでしょうか。


【小谷城紹介】
小谷城の築城は諸説ありますが、大永四年(1525年)浅井氏の初代亮政により 築城された説が有力です。
その後、2代久政、3代長政にわたり浅井氏は江北の雄として約50年繁栄します。
3代目の長政は、永禄四年(1562年)に織田信長の妹お市の方を妻に迎え 織田信長と同盟関係を結びます。
しかし、浅井氏は先代久政の時代より越前朝倉氏とも同盟を結んでいたため、 元亀元年(1570年)に織田信長が越前朝倉義景を攻めた際に信長に反旗を翻しました。
このとき、織田信長は羽柴秀吉らの活躍で、間一髪のところで京へ無事逃れることができます。
その年の6月には、織田信長は再度軍を発し姉川にて、浅井、朝倉連合軍と戦います。(姉川の合戦。)
この合戦で敗北した、浅井、朝倉連合軍は1573年に朝倉氏が滅亡し、1575年には浅井氏の小谷城も落城します。 浅井長政は自刃、浅井氏は滅亡します。
(後日談ですが、浅井長政とお市の方の娘、お督が徳川幕府2代将軍の秀忠の側室になり、 浅井氏の血はのちの世まで引き継がれることになります。)

浅井氏滅亡後小谷城は、小谷城攻めに功績のあった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉) が江北湖北三郡12万石を与えられて入城します。
しかし、羽柴秀吉は天正3年(1575年)湖畔の今浜(現在の長浜) に新しく長浜城を築城し、小谷城は廃城となりました。
小谷城の建物や石垣等は、長浜城へ築城の際の資材に転用されほとんど残っていません。
ただ、現在の彦根城の西の丸にある三階櫓は、一度長浜城へ移築された小谷城の天守を 再度長浜城から彦根城に移築したものと云われています。


【攻城手記】
戦国時代のドラマや小説には必ずと言っていいほど登場する。浅井長政と小谷城。
やっと念願の小谷城を攻める機会に巡り会えた。
(北陸自動車道を通る度に気になっては居たのだけど…。)
北陸乗車道を木之元ICで降りて、程なく現地に到着。

麓の駐車場の脇には大手道があるが、思いの外急斜面なのでちょっと躊躇。
ほどなく、後からきた車が駐車場からつながる林道をそのまま上っていくではないか。
案内板を良く見ると、どうやら主要部のすぐしたの中腹まで車で上れる様なので、そこまで車で行くことにする。
(あとで分かった事だが、麓の駐車場から上ると山頂まで半日コースとのこと。車にして良かった〜。 ハイキングが目的の人は、麓の駐車場に車を止めるみたいだけど。)

途中、出丸の遺構案内板を発見。
車で登るとつい見逃してしまうかもしれないが、案内板をしっかりチェックしたい。
この出丸は、山頂部の城跡のように整備はされていないが、中世城郭の様子を良く残している。
このあと、ひたすら車で山頂部を目指す。
途中峠があり、ここからの景色はすばらしかった。


かなり上ったところで、やっと山腹の駐車場(10台分ほど)に到着。(やっぱり車で来て良かった〜。)
ここには案内板があり、いよいよ主要部が近いことを実感。
トレッキングシューズに履き替えて、いざ登城開始。


登城開始直後から金吾丸、番所跡の遺構に出くわす。
歩道は整備されているが、周りはかなり荒れ果てており、 正直遺構もよく分からない。
落城の際の混乱とその後の破却のすさまじさが見てとれます。

その後も御茶屋、御馬屋、桜の馬場と進んでいくが、なにせ急斜面。
なかなかにハードな登城となった。
それでも、歩道沿いにはいくつもの屋敷跡と土塁跡が見て取れ、本丸に近づくにつれて 自然の地形を巧みに取り込んだかなりの要害であることが分かります。


途中、脇道を行くと浅井長政公が自刃されたという赤尾屋敷跡に行くことが出来ます。
ここも、歩道は一応整備されていますが、石垣の跡などで道が細いところもあるので 少し注意が必要です。
それでも、見晴らしの良い場所からは、眼下の平野部が一望できすばらしい景色を見る事が出来ます。


こうして20分ほど上り詰めると大広間、本丸に到着です。
大広間と言うだけあってかなり広いです。
山頂部の近い場所にこれだけのスペースを確保するのはさぞ大変だったと思われます。
大広間の奥には石垣で築かれた一段高い場所があり、ここが本丸あとになります。
一部ブルーシートの覆われた場所があり、発掘調査が続いている事を伺わせます。
ここは桜の木がたくさん植えられており、春には見応えのある花見が出来そうです。


山頂部をめざしてさらに上ると、中の丸、京極丸、小丸、そして山頂部の山王丸と続きます。
本の丸と中の丸の間にある堀切は、幅も高さもあり見応えがあります。


また、京極丸の周囲には土塁が良く残っており、当時の防衛力の高さを知ることが出来ます。


山王丸東谷側に残る野面積みの大石垣は見応えが有ります。
戦国初期に築かれたと見えて、後の時代の石垣と比べて積み方が荒いですが、 それでも450年崩れずに残っています。


このあと道は一端下り、六坊あとにを経て、大嶽山につながります。
大嶽山にも砦の跡が有るのですが、あまりの急な坂で膝が悲鳴を上げてしまいました。
残りの段数を数えると気が滅入るのと、水筒のお茶が底をついたので、 ここで登頂を断念することにしました。
今度は、季節の良いときに万全の装備で望みたいと思います。



また、ここまで紹介した遺跡の他にも、清水谷を挟んだ向こう側の尾根にも重臣などの武家屋敷が立ち並んでいたようです。
現在でも三田村屋敷や土佐屋敷の石垣は山王丸下の大石垣に劣らない石垣が残っている様です。
やっぱり再チャレンジしなきゃいけないですね〜。

登城終了後時間があったので、鉄砲の里国友の資料館と姉川の古戦場に寄りました。
鉄砲の里の資料館では当時の鉄砲の製造方法が紹介されており、なかなか興味深かったです。




姉川の古戦場は、今はのどかな田園風景が広がっています。
この風景からは過ぎし日の戦国の合戦はどうしても思い浮かびません。
(この写真の後ろ側に姉川が流れています。)



【メモ】
・交通アクセス
 所在地: 滋賀県湖北町
 鉄 道: JR北陸本線河毛駅〜徒歩 or タクシー
 車  : 北陸道長浜IC〜県道510号線
 駐車場: 小谷城無料駐車場を利用。
 麓の駐車場(約30台程度)、中腹の駐車場(約10台程度)


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Text & Photo by Y.No


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