I feel   管理人が感じたことをとりとめなく書いてます

Text by Y.Ohara



2006.01.04  〜 年末年始の過ごし方 〜

 楽しみにしていた年末年始の休みも終わってしまった。
 休みの前は、あんなことしてこんなことして・・・・ と色々計画を立てるのだが、いつも計画倒れなのだ。

 この休み中、ほとんど家にいた。万歩計はつけていないが 1日平均3000歩くらいだったんじゃなかろうか。 出歩いたのは、元旦マラソンに参加したことと日枝神社に 初詣に行ったこと、近所の郵便局に年賀状を出しに行ったこと、 くらいである。
 あとは年末の大掃除や納屋の片付けなどを少々。  それ以外は、箱根駅伝をテレビで見たり、親戚と酒を飲んだり、と 怠惰な数日間を過ごしてしまった。

 歩かなければそれで済んでしまう生活なのだなぁ・・・としみじみ感じ、 同時に、歩くことは喜びだとか季節を感じるとかエラソーにコラムを書いている 場合じゃないよな、と深く反省した。

 ともあれ、今年が良い年でありますように。



2006.01.13  〜 むかしむかし 〜

”のっちゃんの功城手記”というコーナーが始まった。
お城めぐりが好きな”のっちゃん”に、僕が無理にお願いして 実現したコーナーである。
城跡や神社・お寺・祠といった身近な異次元空間が好きな 僕は、本当にうれしい。

ものすごいスピードで姿を変える風景の中で、 ぽつんと残された城跡や神社。そこだけは別の世界のようだ。
そこで感じる不思議な感覚が好きで、時々ふらりと立ち寄ることがある。
そこでは、世界が今の形で忽然と現れたのでもなく、僕たちが いきなり生まれたのでもない。
むかぁーしむかしから 途切れることなくつながっているから、今があるのだ、という当たり前のことを 思い出すことができる。さらに、”今”とは、過去から未来へ続く時間の流れの中の 小さな点であるに過ぎない、ということも謙虚に受け止めることができる。
だが、”諸行無常”を感じることはない。自分が”点”であることを面白がっている。

子供の絵本の中に、僕のお気に入りの一冊がある。
「カラスとカモメ」(二川英一 作・絵)というお話で、アラスカ・クリンギット族の昔話 を基にした絵本であるとのこと。
内容は、むかしむかしまだこの世が始まったばかりの頃、よくばりなカモメが太陽を 独り占めして海の底の自分の家に隠してしまい、それを賢いカラスがカモメをだまして 取り返し、再び太陽が世界を照らすようになった、というもの。
それ以来カモメはカラスが嫌いになり、今でも海辺で追い回している、という オチもついている。
子供より僕が惹かれてしまい、時々こっそり読み返している(家族に見られるとはずかしいので)。

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2006.01.20  〜 大寒 〜

今日は二十四節気のひとつ”大寒”である。万物を凍らせる厳寒となる時期だ。
大寒の次は立春。
二十四節気は一年を24等分したもので、太陽の運行と連動しているので 季節を知る判断材料となるのだ。ということは、もう15日後には 「冬の陰気に閉ざされた万物に春の陽気が立ち始める」のだろうか。
大雪だーと大騒ぎしていたけれど、もうすぐ春だなんて、ヘンな気分だ。

大雪を言い訳に家に閉じこもりがちだったが、なんだかあせってきた。というのも、 この冬はまだ一度もスノーシューを履いていないのだ。毎年、近所のお気に入りのエリアで何度かの 日帰り探検を楽しんでいたのだが、今年はしつこい風邪にかかったこともあり、まだ行っていない。
うーん、雪に埋もれたあの雑木林にぜひとも行かねば。
風邪もなんとか治ってきたみたいだし、次の休みには行ってみよう。

ところで、昨夜久々に、「なぁぁぁ〜〜〜ぉぉぉぅぅう〜〜」という声を聞いた。
そう、猫の恋歌である。彼らも春を感じたんだろうか。 お世辞にもロマンチックとは言えないが、律儀に、真摯に、命を受け継いでいこうとしているんだなぁ。
それにしても、ちょっと気が早くないだろうかと思うのは、要らぬお節介かな。

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2006.01.25  〜 ソロ 〜

スノーシューでの散策に一人で行ってきた。
僕はできる限り一人で行動したい。
なんといっても全てを自分で決める自由がある。
気分しだいでルートを変えたり、思いのままに歩くことが好きなのだ。

自分に課しているルールはふたつ。「無事に帰ること」と「他人に迷惑をかけないこと」である。 審判もいないし他人に採点されることもないが、当然守るべきルールである。

一人歩きは危険だと言われるかもしれない。しかし、さまざまな状況に応じて、自分で判断し 行動する、ということはウオーキングや登山の最大の魅力だと思う。
自分の能力に対して謙虚でありさえすれば、単独行は素晴らしい遊びとなる。
大げさに言えば 自分の知識と判断力と体力を駆使した、ちょっとした冒険を味わえるのだ。

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2006.01.31  〜 春 〜

今日は旧1月3日。暦の上ではもう春なのだ(旧暦では1〜3月が春、4〜6月が夏、 7〜9月が秋、10〜12月が冬)。

昨日はずいぶん暖かかった。そこで、五感で季節を感じたいと日頃から思っているので、春を探しに歩いてみた。
(触覚)
日中はずいぶん暖かくなった。風が、身を切るように冷たい冬の風ではなくなってきた気がする。
また、雪がグズグズのシャーベット状になっている。
(嗅覚)
冬の張り詰めたものとは違う、春の匂いが感じられるような・・・・。
(聴覚)
屋根から雪解け水が落ちるポタポタという音。屋根から雪が落ちるドドドーッという音。
今年の冬は解けずにどんどん積もったので、雪が解ける音は春を感じさせるなぁ。
(視覚)
田んぼの雪の量が少なくなっている。鉢植えの梅に小さな蕾がついた。
(味覚)
七草がゆは食べたけど・・。節分の豆も春の味覚かも。山菜や野草はまだ、ですな。

かなり無理矢理と言う気がするが、みなさんはどうだろうか。

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2006.02.09  〜 新鮮さ 〜

道を歩くとき、同じ道を何度歩いても新鮮なものに出会えるだろうか?
僕は、そうだと胸を張って言えないが、そうありたいと思っている。

脳の機能は、煎じ詰めれば「情報を保存する」と「情報を処理する」 の2つしかないそうだ。
そして、「ものとものとを結びつけて新しい情報をつくっていく」ということを 常に行っているらしい。
出会った新しい情報がどういうものなのか 正確に分類しておいて、何かを解決したい場面になったら、一見まったく関係ない情報同士を とっさに結びつけられる状態が、脳が良くはたらいている状態、即ち頭がいいという状態である。

ところが一方では、脳は「一回分類してしまうと、それ以外の尺度では分類ができなくなってしまう」 という困った性質を持っている。その性質に挑戦しない物は頑固とか石頭とか言われる。

同じ道を毎日歩いても、毎日五感から大量の情報が入ってくる。

「この情報は要るか要らないか」という取捨選択は脳の中の「海馬」という部位で行っている。 また、「好き嫌い」を扱うのは「扁桃体」という部位で、この二つは隣あっていて、お互いに かなりの情報交換をしている。つまり、好きなことや興味のあることを必要な情報だと見なして 処理するのだ。

毎日一緒に同じコースを散歩する二人組みがいたとする。
こんな風景見飽きたよという人は、多くの情報が不要と判断され捨てられる。そして残るのは万歩計の記録だけ。
常に新鮮な気持ちで風景を眺められる人は、多くの情報が必要なものとして保存される。
そしていつかどこかで、保存されていた情報同士が結びついて、ポンッとヒラメク。

全く同じものを五感から得ているのに。

散歩といえど侮れないのだ。

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2006.02.21  〜 雪にまみれて考えたこと 〜

ある行事で、富山市子どもの村(山田地域)の周辺をカンジキやスノーシューで歩き回る機会があった。
ウサギやテンの足跡があり、フンも落ちていた。ウサギが目の前を走って横切った時は ドキドキした。
いろんな生命の営みがあることを実感するというのはとても楽しい。

おととしのクマ騒動をきっかけに、里山の機能を見直したり、自然の大切さを考え直したり、と いった活動が全国的に盛んになってきたようだ。これはとても素晴らしいことだと思う。

だが、ひとつ気になることがある。
こういう環境問題の話には必ず、「人間が自分たちの都合で自然を壊している」という発言がある。
子ども達も無邪気にそう信じているようだ。僕も時にはそう思うこともある。
これは、自然が壊れている→人間がいじりすぎたせいだ→人間がいじらなければ自然は守れる、
というわかりやすい論理によって、だれでも納得してしまうからだろう。

こういうことを言う時には、「自分も破壊者の一人である」という自覚があるのだろうか。
おそらく、「自分以外の、自然を大切にしない人たちによって自然が壊されている」ことに心を 痛めているのだと思う。
しかし、「人間が自然を壊している」という仮定が正しいのであれば、 自然を大切にしていようがいまいが、人間である限り、自然破壊の加害者であるのだ。
人間が自然を壊す”悪者”なのだとしたら、自然を守るためには人間がいなくなるしかない。
もしくは、クマやウサギとおなじく、自分の肉体だけを駆使して生きていく生活をするか、だ。
どちらもできるはずがないので、モメているのだ。

では、自然が壊れるとはどういうことなのだろうか。また、なぜ壊れてはいけないのか。
自然とは、ありとあらゆるものが生まれたり死んだり依存しあったりして常に変化している”状態”そのものを指すのだと思う。
ジオラマ模型ではないのだ。壊すの壊さないの、というレベルの話とは違うんじゃないかな、という気がする。
何がどう作用して今の”状態”を作り上げているのか皆目わからないから、刹那的な欲望だけであんまり環境を いじりすぎないほうがいいよ、でないと人間にもとんでもない悪影響があるかもよ、ということなのではないだろうか。

こういう問題は、自分も当事者であるという意識が必要である。
自分も自然を構成する要素の一つに過ぎないのだから、何が正しいかなんてわかるはずがない。
当事者としてどうしたらよいか、自分の頭で考えるしかない。

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2006.03.01  〜 この親にして・・・ 〜

うちの息子が学校から持ってくるプリントやテスト。
二つに折ってあるのだが、キチンとたたまれていない。
角と角が重なっておらず、とにかく二つに折曲げときました、というやっつけ仕事なのだ。
「キチンと半分に折ったら?そのほうがきれいだろ?」 と言ったことがある。
「でも、これでもカバンに入るもん」と息子。
どうやら、プリントが配られる”帰りの会”の時は、連絡帳を書いたりいろいろと バタバタするし、机の上のスペースもないらしい。
そこで奴は、プリントをさっと二つ折にしてカバンに突っ込む。
彼の理屈では、配られたプリントをキチンと折らなくともカバンに入るし、その方が早いし、 読む時はどうせ広げるのだし、読んだら捨てるのだからそれで充分、というのだ。

ムッ、そう来るか・・・・。小学1年生のくせに、なかなかやるな。

僕が中学生の時の英語の先生は、ものすごくたくさん宿題を出す人だった。
その宿題というものが、どういう効果を期待してこういうことをやらせるのか、 と疑問に思うような内容だった。
さらに宿題をしてこなかったら罰としてグラウンドを10周走らせる、 といってみんなから嫌われていた。
幸い僕は走るのが好きだったし、運動部に入っていたので、 「グラウンドを10周走るのなんて簡単だ。むしろこんな宿題するよりもよっぽど有意義だ。」 と親に言って叱られた記憶がある。実際にそうしたかどうかは定かではないが、 今でも親から「あの時は、オマエがどんな子になるのか心配でしょうがなかった」と言われる。

僕も息子がどんな大人になるのか少し心配だ。

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2006.03.10  〜 リアルとバーチャル 〜

ぐっと春らしくなってきた。
コウさんから福寿草の便りが届いた(「コウさんの雑記帳Vol.38」)。

丁度その夜、ニュースでも福寿草の映像が流れたので、 ”コウさん”の記事をそのまま家族に披露したら感心されてしまい、 あわてて受け売りの知識であることを白状した。

脳に入ってきた情報は、脳の中の”海馬”という組織で取捨選択され、保存される。
当然、要らないと判断された情報は保存されない。海馬で必要と判断されるためには本人の 興味の強さがカギらしい。
従って、多彩な分野の知識を持っている人は、何にでも興味を持つ 幅広い視野の持ち主だと言えそうだ。

ところが、現代は脳以外の巨大な情報保管場所がある。そう、インターネットだ。
ウェブ上にはなんと30億(!)もの文書があるらしい。
その中からリクエストに応えられそうなものを選び出す”検索エンジン”は、 ほとんどのインターネット利用者が普通に使っているだろう。
しかし、その情報は玉石混交で、大半は”石”なのである。
玉か石かを自分自身で判断しなければならないことが厄介だ。

インターネットについて批判も礼賛もするつもりはない。
どう考えたらよいのかわからないのだ。
僕は今のところ、インターネットは道具である、と割り切ってつき合っている。

知識も所詮は道具である。
春の日差しの暖かさと風の冷たさのギャップを感じたことがなければ、 福寿草の知恵も面白がることは出来ない。

体験や実感を伴った知識が大切だと思うのだ。

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2006.03.23  〜 ランニング 〜

最近、けっこうコンスタントに走っている。
歩くことも好きだが、走ることも好きなのだ。

走るといってもごくスローペースである。1km6分半〜7分くらいだから 1時間に9kmくらい。早足で歩くよりも少し速いくらいだろうか。
息がアガらない程度に走ると、僕の場合はこうなる。
息がアガらない、というところがポイントで、こうすれば1〜2時間くらいは 苦しまずに走れるのだ。

走っている時は、景色を見たり考え事をしたりボーっとしたりしている。歩いている時と 何も変わらない。

走ることと歩くことの違いは何か。
僕の場合は、荷物の量が違う。

例えば、2時間歩くとすれば、カメラや地図や水筒やお菓子を持ったりして、けっこうな量になってしまう。
走る時は、2時間くらいなら大抵空身だ。

荷物の違いは気分の違いである。
歩く時には、地図を見ながら予定のルートを外れて”冒険”してみたり、気持ちのよい場所で休憩したり、 と偶然や発見を楽しみたい。
走る時には、できるだけ身軽になって、走ることそのものを楽しみたい。

と、かっこいいことを書いてはいるが、最近走っている一番の理由が”体重の増加が気になりだしたから” であることをさりげなく白状しておく。

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2006.03.31  〜 過程を楽しむ 〜

コウさんからメールが届いた。

「コウさんの雑記帳」の植物名に誤記があったので、訂正したいとのことだった。
名前の訂正だけなら数分でできる。しかし、敢えて訂正記事として掲載することにした(Vol.40 Vol.41)。

コウさんにとっては単に勘違いをしていただけなのだろうが、僕にとっては、何かすごく得をした気分になったからだ。

ミヤマシキミとツルシキミというよく似た名前の植物があり、ミヤマシキミの変種がツルシキミとのことだがどこがどう違うのか。それについて調べる楽しみをもらったような気がする。

勘違いをする。それに気付く。訂正する。それら全てが大切なプロセスだと思う。
正解を導くまでの過程が一番面白いのだ。

例えば、難しい問題がもう少しで解けそうなのに、答えを言われるとがっかりするでしょう?
そしてその答え自体には、大抵「ふーん」という程度の感想しかもてない。

早速「oNLINE植物アルバム」で調べてみたのだが、シロートには違いがよくわからなかった。やっぱりフィールドで本物を見てみないと・・・・

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2006.04.18  〜 副産物 〜

猿倉山を散歩した。
カタクリの群生には少し早かったようだが、 それでも所々で可憐な姿が見られた。
ショウジョウバカマも咲いていた。
地面ではモミジの種が発芽し、まだ殻をつけたままの姿で 小さな足を踏ん張っていた。
林の中からガサガサッという音が聞こえた。きっとカモシカが逃げたのだろう。
足元には蹄の跡らしきものがあった。

いつから、生き物が好きになったのだろう。
子供の頃から魚釣りが好きで、今でも時々出かける。
釣った魚や捕まえた虫を飼う事も好きだった。
そういう意味では、昔から生き物が好きだったのかもしれない。
しかし、子供の頃と今では「好き」の性質が違う気がする。

子供の頃は、釣るとか捕まえるとか飼うとか、とにかく自分が主体となった 行為を楽しんでいたのだと思う。たまたま、その対象が生き物だったのに過ぎない。
ところが今は行為以外の楽しみを感じている。

例えば。
我が家の庭の片隅に、数年前イチゴを植えた。そのイチゴの株からどんどんランナーが伸びて、次々に株が増えてゆく。
「増えた」ことを喜ぶのではなく、「増えている姿を見る」ことがうれしいのだ。
そして、イチゴの実を狙って集まってくるナメクジやダンゴムシも、ほほえましく見えるようになってしまった。

例をもうひとつ。
釣り用語に「アタリ」という言葉がある。魚が針をつついたサインのことだ。
浮き釣りでは浮きがピクピク動く。浮きをつけない”脈釣り”という方法では、大抵手元にその感触が伝わる。
達人レベルでは、釣り糸のわずかな動きなどでもわかってしまうらしい。
とにかく、「アタリ」を逃さず、針が魚の口に入っている瞬間に竿先をチョンとあおる(「アワセ」という)と魚がかかるのだ。
エサだけをくわえて針は口の外、ということが多いのでタイミングが難しく、アワセは釣り人の腕前が問われる。
魚がかかった後は、引きを楽しみつつ取り込み、食べるなり逃がすなりして一応の完結である。
この一連の流れの中で、何が一番楽しいかと言えば、アタリの瞬間である。
ここぞという場所に釣り糸を垂れ、アタリがくる。その時の「おっ、おっ」というコーフンが好きなのだ。

結局、いろんな生き物が生きていることを感じることが好きなのだ。それぞれの個体だけでなく それをとりまく周辺の関わりあいも含めた「生きている状態」が好きなのかもしれない。

僕のウオーキングも、先ほどのイチゴや魚釣りの例と全く同じである。
運動の効果よりも「歩いていること」の方が重要なのだ。

かくして、本来の目的であるはずの収穫は、いつの間にか「副産物」になり下がってしまった。

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2006.05.16  〜 うーん・・・ 〜

今年も「旧立山道ウオーク」が開催される。
その準備が少しずつ忙しくなってきている。
僕は例年通り、その事務局(要するに使い走り・・・)を仰せつかってしまい、 これから行事終了まで なんだか落ち着かない日々が続きそうだ。

先日、中学生向けのPR用ポスターを作製したところ、 その内容について、ある方面からチェックが入ってしまった。

ポスターには、この行事が始まったきっかけである、かつて行われていたという 「立山登拝(とうはい)」について 簡単に紹介した記述を載せた。
また「男子十六歳にして立山に登らざれば越中人にあらず」という、 当時の言葉もデカデカと載せた。

いずれも、昔はこういう風習が富山にあったんだって・・・というただの「紹介」 のつもりだったのだが、 「登拝」は宗教色が濃いのではないか、「男子・・・」の部分は男女差別ではないか、とのことで 修正を指示された。

まあ、僕のようなのほほんと育った世間知らずは、 こういう問題についてキチンとした主張があるわけではない。
なるほどねえ・・・・、としか言えない。

あっ、そうだ。

じゃあ、僕は「ゼッタイに残業しない教」の信者だから絶対に残業しません、 って言ったら認めてもらえるのかしらん?

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2006.06.01  〜 富山市ウオーキング協会 〜

昨夜、富山市ウオーキング協会の設立発起人会が開催された。
富山市のウオーキングの振興のため、ヨチヨチ歩きではあるが 第1歩を踏み出したのだ。

今後はこの「歩くスポーツ」を、富山市ウオーキング協会のサイトとして位置づけ、 より一層の充実を図るつもりである。

歩く楽しみ方の多様性を認めつつ、どう活動してゆくのか、ということは 全く未知数である。
しかし、まずは「動き始める」ことが重要なのだ、ということでスタートした。

会員の勧誘はこれからボチボチ始めるのだが、会員になってもメリットはなーんにもない。
でも、僕は協会を「仲間に入りたい」と思われるようなチームにしたいと思っている。

とりあえずこれからも、この「歩くスポーツ」をのぞきに来てください。

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2006.07.06  〜 ワールドカップで考えた 〜

昨日の早朝、ワールドカップサッカー ドイツ×イタリア戦を見ていたら、 テレビの画面に北朝鮮がミサイルを発射したという速報が流れた。
「オレ、こんなことしてていいのかなぁ・・・」と思いつつ、どうすることもできないので 結局、試合終了まで見続けた。大変面白い試合だった。
こういうことが、「平和ボケ」と言われるんだろうなぁ。

その前日、ウチの娘が保育所で怪我をしてきた。家内の話では、加害者がいるらしい。
家内は、その子の親や保育所に対して文句を言いたそうだったが、僕は、やめとけと言った。
一旦争いごとを始めてしまえば、ずーっと続くのだ。
本当に争いごとを起こす時は、とことんまでやる覚悟が必要だ。
僕はそういうことは面倒くさいと真っ先に思ってしまう性格なので、確かに腹は立つけれど、争いごとはしたくない。
その子がウチの娘に対して、悪意を持って故意に怪我をさせたのではないようなので、しょうがないじゃないか、 と言うのが僕の考えなのだが、家内は釈然としないようだ。

話し合いと争いは違う。
話し合いとは、お互いの意見をぶつけ合いながらより良い関係を築こうとすることであり、 スポーツの試合のようなものだと思う。
一方、争いごとはルール無用のデスマッチなのだ。

ワールドカップについて、「武器を使わない戦争だ」なんていう表現を聞いたことがある。
でも、本当に「戦争」だったら、ルールもへったくれも無いのではないか。
なんだかんだと言いながら、みんなキチンとルールを守って脚でボールを蹴ってるし、僕はやっぱり「遊び」なんだと思う。

遊びだと自覚しているからこそ、見る人もやる人も安心してアツクなれるのではないだろうか。

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2006.07.16  〜 初心 〜

今日は早朝から「遊歩人の会(ゆうほにんのかい)」というウオーキングサークルの定例会が予定されていた。
早朝6:30に滑川駅を出発し、海沿いを岩瀬まで歩くという企画だった。
ところが昨夜からの雨で、やむなく中止することになってしまった。

このサークルでは、集合時間の3時間前に開催の有無を決定し、留守番電話にその旨を吹き込み、各自が確認するという方式をとっている。
中止バージョンのメッセージをセットして、念のため5:50頃から集合場所であるJR滑川駅前で待っていた。
すると、5〜6人のメンバーが集まってきた。
「今日は中止にしたが」と言うと、案の定「エーッ」という反応。
しかし、その後の言葉が素晴らしかった。
「せっかく来たがだから、歩いて帰っちゃ」
「道、分かんが?」
「なんとかなっちゃー」
その人たちはこう言って、小雨の中を颯爽と歩き出したのだ。

このグループを立ち上げ、世話人になって3年。
常に「一緒に楽しむ」というスタンスを取っていたつもりだったが、 いつの間にか「自分がいないと何も出来ない」という思い上がりと 「不手際があったら、苦情を言われる」というスネた根性が染みついていたのかもしれない。

初心にもどらねば、と感じた朝だった。

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2006.10.03  〜 歩くことは好きですか 〜

僕は歩くことが好きだ。
ただし、”ウオーキング”という運動種目ではなく、ただブラブラ歩くことが好きなのだ。
目的地のある無しに関係なく、歩きながら景色を眺めたり、とりとめのないことを考えたりすることが好きなのだ。
健康のために歩くことを”ウオーキング”と呼ぶようになって久しい。
このことが人々に、歩くことが何か特別な、立派な、大したことなのだという錯覚をもたらしているのかもしれない。
僕はただ、歩けば気分が良くなり、体も軽くなり、わずかでもガソリン代の節約にもなるから歩いている。
へそまがりな僕は、歩くことを少しでも”何でもないもの”にしたい、と思っている。
だから、背伸びした大げさなウオーキングイベントなんて必要ない、とも思っている。

僕は、富山市ウオーキング協会の理事長なんて大げさな役を仰せつかっているが、 毎日1時間自宅周辺を歩くとか、そういう”特別な”ことをしていない。
ただ、毎日の生活の中で、出来るだけ歩くように心がけている。
歩くことを日常生活の中で”当たり前”にできないか、と思っているのだ。
ただ、こういうことを考えること自体が歩くことを特別視しているのかもしれないが。

なぜこんなことを書くのか。
2ヶ月ほど前から、万歩計を装着して一日の歩数を記録しているのだが、ちょっとショックだったのだ。

やはり車中心の生活で、一日5,000〜6,000歩しか歩いていないことの方が多い。
ひどい時は、一日で3,000歩ちょっとしか歩いていないこともある。
よく歩いた日でも17,000歩弱。大抵、気晴らしに散歩したり、歩いて買い物や用事に行くなど、歩くことを意識した日である。
通常、ヒトは1分間に100〜120歩程度のリズムで歩くと言われているので、少ない日は1日を通して合計30分くらいしか 歩いていないことになる。よく歩いた日でも、2〜3時間程度の計算だ。

今の生活では、やはり歩くことは、特別な”活動・運動”なのであって”日常生活の移動手段”ではないのだなぁ、 ということが今更ながらよくわかった。

歩くことが好き、だなんて言っている僕自身がほとんど歩かない生活をしているのだから、 歩きたくない人はもっと歩いていないんだろうな。

日常生活の移動手段として、もっと歩くことが当たり前だった時代と今とでは、 価値観が全然違っていただろうと容易に想像がつく。

例えば、普通に歩いているときのスピードは時速4〜5km/h、早足では時速6〜7km/hである。
ところが自動車なら、通常でも時速50〜60km/h程度で走っている。
つまり、自動車なら1時間あれば60km先まで行けるが、歩いたらせいぜい7km先までしか行けない。
また、歩きなら、自分が運べる荷物の量はたかが知れている。一度に20kg運べたら上出来だろう。
自動車なら100kgの荷物だって一度に運べる。
60km先まで100kgの荷物を運ばなければならないとすると、自動車なら1時間で出来るが、 歩きなら5人でやっても10時間以上かかる。1人だったら5往復しなければならないので、1日では出来ない。

「当たり前だろう、バカ」と言われるかもしれない。

ただ、自分が体力を使わなくても100kgの荷物を60km先まで1時間でカンタンに運べる、というのは、 よく考えたらなんだかオソロシイことだなぁ、と思うのである。

時間や距離や重さといった”実感”がどんどん薄くなっていくことは、我々の心にどう影響するのだろうか、とふと考えることがある。

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2006.11.26  〜 通りすがり 〜

このサイトのトップページの写真に、”通りすがり写真展”というタイトルをつけた。
我ながらナメたタイトルだなぁと思うのだが、僕はこの”通りすがり”という言葉を気に入っている。

たまたまそこに居合わせたからこそ見られた、というのはものすごく貴重な気がするのだ。
それは、その対象だけでなく、その辺りの光とか風とか温度とか音とか自分の気分とかそれまでの過程とか、そういう雑多な、 言葉では言い表せない要素が、偶然にもその瞬間に全部まとめてそこに居合わせたからこそ見える風景であり、 それを五感で感じてこそ”見た”ことになるのだと思う。

そういう現場に居合わせたいと思うし、「おっ、なんかいいぞ」と思える感性を磨きたいとも思う。
歩くけばそのチャンスが広がる。
だからこそ、僕は歩くのが好きなのかもしれない。

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2006.12.07  〜 大雪 〜

今日は二十四節期のひとつ「大雪」。
もちろん「おおゆき」ではなく「たいせつ」とよむ。
「朝夕には池や川に氷を見るようになる。大地の霜柱を踏むのもこの頃から。山々は雪の衣を纏って冬の姿となる頃。 」 (”こよみのページ”より引用)

昨年は12月5日にいきなり雪がドカっと降り、そのことについてこのページでも書いた。
今年は平地では雪はまだ降らないが、そろそろ本格的に寒くなってきた。

冬には冬の歩く楽しみがあると口では言いながら、日に日に寒くなってゆく今頃の季節というのは、僕はどうも苦手だなぁ。

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2006.12.30  〜 ありがとう 〜

今年の大きな出来事といえば、やはり、富山市ウオーキング協会が発足したことだろう。
コウさんやのっちゃんをはじめ、多くの方々の協力に支えられ、なんとか活動している。
こういうことを素直に書けるということは、自分も成長したのかも、などと甘いことを考えたりもする。
「おれがおれが」だったもんなぁ。

今年もいよいよ終わり。

記事を書いてくださったコウさん、のっちゃん、
このサイトを訪問してくださったみなさん、
そして、各種のウオーキング行事に参加してくださったみなさん、
みんなみんな、どうもありがとう。

来年も楽しい年にしましょう。

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